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ファラデー


生1791
没1867


マイケル・ファラデーは、10人兄弟の3番目として、貧しい鍛冶職人の家に生まれた。
生家はロンドンの近郊である。
向学心の強い子供であったが、貧困のため小学校しか卒業していない。


13歳のときに学業を断念し、製本工場に見習奉公に出ることになった。
ファラデーの製本職人としての働きは、誠実そのものだったという。
この製本工場では、ブリタニカ大百科事典が取り扱われていた。
ファラデーは仕事の合間を見つけては、ブリタニカ大百科事典を読みふけり、科学への興味を強めていった。


転機は21歳で訪れた。
当時の大化学者デイヴィによる一般市民向けの講演が大学で公開されたのである。
ファラデーは、デイヴィの講義をすべて聞き、それを講義録として製本したのであった。
この講義録をデイヴィに送り、大学で働きたいと希望と伝えた。


講義録を見たデイヴィは、ファラデーの才能を見抜き、たまたま欠員の出ていた助手として採用した。
製本職人が、研究助手になることは、英国の階級社会にあって異例中の異例である。
1813年、ファラデーが22歳のときのことであった。


助手としてのスタートであったが、まもなくファラデーは、正規の研究者として認められる。
1825年のベンゼン発見を発端に、塩素の液化(1823年)、電磁誘導(1831年)、電気分解の法則(1833年)と次々と業績を打ちたて、後に19世紀最大の科学者といわれるまでになった。
デイヴィの後をついで、英国王立実験所長も歴任している。
静電容量の単位「ファラド」は、ファラデーの名から命名されたものである。


クリミア戦争が勃発すると、化学兵器を作るよう政府から依頼された。
これに対しファラデーは「作るとは可能である。しかし手を貸すつもりはない」と返答したという。
このことから、ファラデーは徹底した強い平和主義者だったとの人物像が定着した。


師のデイヴィも多くの発見を成し遂げたが、「私の最大の発見はファラデーである」とも言い残している。


1867年、ファラデーは自宅で椅子にもたれかかるように永眠した。

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2005/08/20



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